『どうする家康』第48話(神の君へ)の感想

 

 

 

『どうする家康』第48話(神の君へ)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきます。

 

まず良かった点は1つあります。それは物語の展開にメリハリがあり、最後まで視聴者を飽きさせなかった点です。前半は乱世最終章、後半は三河家臣団含めた主要キャラ再登場の回想シーンということで、特に後半は第1話から見てきた視聴者にとっては感慨深いものがあったと思います。

『どうする家康』には新しいリーダー像の提示というテーマがあったと思いますが、後半の回想シーンではそういう原点を示唆する演出だったのではないでしょうか。

頼りない君主が対話を重視しながら家臣たちの力を借りて天下泰平の世を目指す。仲間や家臣たちの力なしでは戦なき世を実現することは出来なかった。そういう雰囲気を感じ取ることができる回想シーンだったと思います。

 

一方で良くなかった点は、今回はなし、としたいと思います。前半の大阪夏の陣も中身が濃く見応えがありましたし、豊臣秀頼、茶々たちの最後は壮絶でしたね。『どうする家康』では戦のシーンにCGを多用し、出来るだけ省エネで撮影している印象でしたが、最終話では戦のシーンも素晴らしい出来だったと思います。このくらいのクオリティを1年間通して実現してくれれば文句はなかったのですが。

 

最後に学びがあった点ですが、家康の辞世の句について少し考えてみたいと思います。「嬉やと再び醒めて一眠り 浮世の夢は暁の空」という句からは、晩年を満足して過ごした様子が伺えます。

前半の「嬉やと再び醒めて一眠り」は何度も死線をくぐり抜けて来た家康だからこそ、朝、目覚めるだけで嬉しいという謙虚な気持ちが表れているのではないでしょうか。さらに「一眠り」という言葉にものんびりした家康の性格が反映されている気がします。のんびりを別の角度から言い換えると、忍耐、我慢、辛抱ということでしょうか。

「浮世の夢」とは現世で見る夢、「暁の空」とは空が少し明るくなり始めた時間帯のことですから、夢や希望を持つことの重要性を肯定している感じを受けます。自らが天下統一を果たし、将軍職を息子に譲り、これからの世の中が戦のない天下泰平の世になることを願っているようにも受け取れますね。