『光る君へ』第九話(遠くの国)の感想

 

 

 


『光る君へ』第九話(遠くの国)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきます。

 

まず良かった点は1つあります。それは素直に物語の展開が面白い点です。兼家の道兼に対するDVは嘘で、兼家の計略の一つであったり、物語の最後では謎の男・直秀がまさかの死亡。直秀だけでなく、散楽のメンバー全員が死亡するという衝撃の展開で度肝を抜かれました。そして、『光る君へ』の方向性というか、物語を通底する雰囲気を感じ取ることが出来る回だった気もします。

 

一方で良くなかった点も1つあります。視聴者目線で物申したいことは、今回の直秀の死、散楽メンバー全員の死はやり過ぎではないか、ということです。せっかく物語に丁寧に組み込まれていて、愛着も湧いていたにもかかわらず、あっさり退場させるのは、物語的に意味を持つならいいのですけど、残念でなりません。市井の人々の視点から物語を語りにくくなったので、新しいキャラクターを登場させる必要がありますし、他の仕組みを用意しているということでしょうか。まだ40回以上も物語があるのにメインキャラと思われていた人物が退場することに衝撃を受けました。

 

最後に学びがあった点ですが、為時が大学に入学する息子に向けて送った言葉について少し考えてみたいと思います。一念通天(いちねんつうてん)、率先垂範(そっせんすいはん)、温故知新(おんこちしん)、独学孤陋(どくがくころう)の4つですけど、私は温故知新しか知りませんでした(笑)

それぞれ、一念通天は、どんなことでも、ひたすら信じて念じ続ければ、必ず天に通じて、成し遂げられるということ。率先垂範は、先に立って模範を示すこと。温故知新は、前に学んだことや昔の事柄をもう一度調べたり考えたりして、新たな道理や知識を見い出し自分のものとすること。独学孤陋は、師も友ももたずにひとりで学問すると、見識がひとりよがりになってかたくなになるからよくないということ。

どれも中国の古典を出典とする含蓄のある教えですが、人が生きて成長していく上で必要なことは中国の古典から全て学べる感じがしますね。今からでも古典を学習する必要性を痛感する次第です。

 

『光る君へ』第八話(招かれざる者)の感想

 

 

『光る君へ』第八話(招かれざる者)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきます。

 

まず良かった点は1つあります。それは今回のタイトル「招かれざる者」の秀逸さです。おそらくダブルミーニングになっていると思うのですが、1つ目はまひろにとっての道兼の来訪、2つ目は貴族にとっての盗賊の侵入ではないでしょうか。

前者については、道兼の前でまひろが母親の形見の琵琶を弾くシーンは何とも切ないものがありました。母親の死因を尋ねられても動揺することなく気丈に返答するシーンもあり、緊張感がありつつ見応えがありましたね。

後者については、物語の終盤で謎の男・直秀が盗賊として貴族の館に侵入し、警備の者に捉えられてしまいました。道長と直秀が貴族と盗賊という立場で対面することになるのですが、道長の表情が苦虫を噛み潰したようで、心中を察するに余りある状況でした。道長は謎の男・直秀の正体を薄々気づいていたと思われますが、同時に直秀の人間性に好意を抱いており、貴族と盗賊という立場での再会は望んでいなかったのでしょう。それがラストのあの表情に繋がったのだと思いました。

謎の男・直秀は盗賊として捕まってしまった以上、大人しく刑罰を受けるか、逃亡したとしても都にいることはできませんから、一旦、物語から退場するのでしょうか。重要人物だと思っていたので少し残念ですけど、物語の中盤から終盤に再度登場して物語を盛り上げるという展開になるのでしょうか。

 

一方で良くなかった点も1つあります。それは次の山場がどこか分かりにくい点です。第五回までは、まひろと三郎(道長)の再会を軸として物語が進んで来ましたが、次は何をテーマとして物語を盛り上げていくのか少し分かりにくい感じがしています。

大きな流れとして、道長が権力の頂点へ向かう流れ、まひろが紫式部として源氏物語を書くまでの成長を描く流れがあるのは理解しているのですが、人間関係も含めて物語の要素が多く複雑なので視聴者として少し困惑している状況です。

 

最後に学びがあった点ですが、ユースケ・サンタマリアさんが演じている陰陽師安倍晴明について少し考えてみたいと思います。物語の描写を見ていると死者を降霊させたり、人間には見えないモノが見えたり、人外の力がある設定のようですね。

現代人から見ると少し滑稽に感じるのですが、例えば、藤原抵子とその子供を呪詛して死に至らしめたというのは、本当に安倍晴明の力によるものなのか、単なる偶然の産物なのか、その辺りのところは曖昧にしている印象です。

まひろのように陰陽師のような人種をあまり信じていない人間も描かれているので、平安時代の人々もそういう人種との付き合いに難しさを感じていたのかもしれません。ただ、科学が発達していない時代なので、信じざるを得ない部分もあったということでしょうか。

 

『光る君へ』第七話(おかしきことこそ)の感想

 

 

 

 

『光る君へ』第七話(おかしきことこそ)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきたいと思います。

 

まず良かった点は1つあります。それは毎回思うのですが複数の要素が絡み合っており視聴者を飽きさせない工夫が散りばめられているという点です。

まひろと道長の視点では、恋は進展せず、進展どころか物語の最後ではまひろが男性陣の本音を偶然聞いてしまい、道長からの恋文を燃やすシーンが描かれていました。道長とまひろは、こういうすれ違いを繰り返していくのでしょうか。だとすれば物語的にハッピーエンドはない気もしますね。まひろの創作の糧となるのであれば良いとは思いますが。

藤原兼家の視点では、珍しく弱気な姿が描かれていました。代わりに長兄の道隆の存在感が増している印象です。兼家は為時の間者の任務を解いていましたけど、何も理不尽な要求はせず少し不気味な感じでした。まひろの家族がどうなるか少し心配です。

そして謎の男・直秀の視点では、道長から打毬(だきゅう)のメンバーに誘われるなど、物語にしっかり組み込まれている様子が描かれていました。直秀は散楽を通して市井の人々を楽しませる一方、盗賊として貴族の館へ押し入り金品を強奪して貧しい市民へ配っており、道長ら貴族階級と対立する役割が明確になってきました。『光る君へ』は貴族階級だけでなく、市井の人々の視点も取り入れて平安時代を描こうとしていますが、その部分は好感が持てます。

 

一方で良くなかった点も1つあります。それは打毬(だきゅう)のシーンが雑に描かれていた点です。せっかく平安時代の人気スポーツ(?)を魅力的に紹介する良い機会であったにもかかわらず、ルールの説明もなく、視聴者の理解が追いつかないまま間延びした人物描写が続くだけで非常に残念でした。試合なら試合らしく、点差がどうだとか、今のプレーはここが素晴らしいとか、もっと本格的な映像を作って欲しかったです。

 

最後に学びがあった点ですが、題名の「おかしきことこそ」について少し考えてみたいと思います。ここで言う「おかし」は古文の「をかし」とは違う意味なのかもしれません。「をかし」は趣がある、風情がある、というのが第一義ですが、「おかし」は単純に滑稽である、おかしいというそのままの意味に捉えることができます。

まひろが創作した散楽のテーマが貴族階級への皮肉を込めたもので、貴族階級の世界に対する「おかし」と考えるのが自然でしょうか。

 

 

『光る君へ』第六話(二人の才女)の感想

 

 

 


『光る君へ』第六話(二人の才女)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきます。

 

まず良かった点ですが1つあります。それは政治の世界に積極的に関与し始めた道長の変化です。自らの一族の業の深さと責任の重さを自覚し始めたようで、これは単なる変化ではなく成長と言ってもいいのかもしれません。長兄の道隆に右大臣の勢力を排除しようとする動きを伝え、物語において長兄の見せ場を作るなど、表立って活躍するということではありませんが、権力争いに絡んできており今後の展開が楽しみです。

 

一方で良くなかった点ですが、強いて挙げるとすれば前回が激しい回だったので少し物足りなさを感じました。第五回(告白)が緩急で言う所の「急」だったので、今回は「緩」ということだったのでしょう。次の山場に向けた仕込みとして、ファーストサマーウイカさんが演じるききょう(後の清少納言)が登場したり、謎の男・直秀が暗躍(?)していたり、道長の姉の藤原詮子左大臣と手を組んでいたり、気になる要素が多いですね。

加えて、なぜ物足りないのかを考えた時に兼家役の段田安則さんと藤原実質役のロバート秋山さんの出番が少ないことでパンチ力不足だったのかもしれません。特に平安貴族に全く見えない藤原実質にはなるべく多く登場して欲しいですね。

 

最後に学びがあった点については、道長がまひろに送った手紙の内容について少し考えてみたいと思います。「ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 恋しき人の 見まくほしさに」という歌ですが、これは伊勢物語本歌取りのようですね。伊勢物語の方は「ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 大宮人の 見まくほしさに」という歌で、「大宮人の」を「恋しき人の」に変えることで愛の告白をする歌に変えたということでしょうか。ちなみに「大宮人」とは都会に住んでいる人のことのようです。

長兄の道隆が主催した漢詩の会では、道長が唐の詩人・白楽天白居易)の漢詩を引用していましたが、前回の大河ドラマ『どうする家康』とは趣が180度違って教養が試される上質なドラマになっている印象です。はっきり言ってあまりついて行けていません(笑)

 

『光る君へ』第五話(告白)の感想

 

 

 

『光る君へ』第五話(告白)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきます。

 

まず良かった点は2つあります。1つ目は、第一話からずっと引っ張ってきた道長(三郎)とまひろの対面シーンです。今回の物語のハイライトだと思うのですが、『進撃の巨人』のエレンとライナーがマーレで再会するシーンを思い出してしまいました。

道長がライナーで、まひろがエレン。道長(ライナー)が謝り倒すシーンは非常に切ないものがありましたし、まひろ(エレン)が母親が死んだのは自分のせいであると自覚している点も何ともやり切れないものがありました。まひろが道兼に復讐するストーリーを想像していたのですが、とりあえずその線はなさそうなので少し安心しました。

良かった点の2つ目は、第五話の中に物語としての緩急があった点です。毎回感心するのですが、イントロ部分で侍従宰相役・サブングル加藤さんを出演させて笑いを取りに行ったり、後半の道長とまひろの対面シーンでは、緊迫感とシリアスさを一気に盛り上げたり、緩急の使い方が上手く視聴者を飽きさせないと思いました。

 

一方で良くなかった点は1つあります。それは、謎の男・直秀が夜中にまひろを呼び出すシーンです。いくら平安時代とはいえ、フクロウの鳴き真似で人を呼び出すのは少しやり過ぎに感じました。まひろもフクロウの鳴き声にすぐに反応して直秀に会いに行き、屋根の上の直秀と廊下にいるまひろが会話するのですが、この構図は少し滑稽に感じました。もう少し自然な演出でも良かったと思うのですが。

それにしても謎の男・直秀は物語に丁寧に組み込まれていますし、今回も道長とまひろが会うのに重要な役割を果たしていることから、今後も物語の重要な展開に絡んできそうな雰囲気ですね。

 

最後に学びがあった点ですが、権力の頂点に上り詰めようとしている藤原兼家について少し考えてみたいと思います。段田安則さんが演じていますけど、存在感があってハマり役ですよね。人を道具として見ており、目的を達成するためにはどんな手段も厭わない。内に秘めた狂気というか、常識人と思わせておいて、危険な人格の部分がセリフの端々から感じられることが多いと思います。加えて、自分の考えや行動に寸分の違和感も感じていない点が恐ろしいですね。100%自分が正しいと思って行動している人間の恐ろしさというか、まあ、だから戦争がこの世から無くならないのでしょうか。

 

『光る君へ』第四話(五節の舞姫)の感想



『光る君へ』第四話(五節の舞姫)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきます。

 

まず良かった点は1つあります。それは同時進行の要素が多く、展開が早いのでエンタメ として楽しめている点です。登場人物の多さと人間関係の複雑さがプラスに働いている印象です。

藤原実資役・ロバート秋山さんの蔵人頭の役職を打診された時の「辞退申し上げます!!!」、藤原詮子役・吉田羊さんの「父上!、帝に毒をもったというのは誠でございますか!?」などの感情の高ぶりを表現する場面は、非常に緊迫しており、惹きつけられるものがありました。加えて、五節の舞などの神事では映像美にこだわった演出が素晴らしく、エンタメとして飽きが来ない設計になっていたと思います。

 

一方で良くなかった点も1つあります。それは、物語終盤の五節の舞のシーンです。平安時代の神事で素晴らしい映像の撮り方をしていたので、最初から最後まで通しで見たかったですね。物語の都合上、まひろに焦点があたり、途中で端折る形になってしまったのが残念でした。

 

最後に学びがあった点ですが、『光る君へ』をエンタメとして面白くしている要素の多さについて少し考えてみたいと思います。ストーリーラインとして、まひろと三郎の関係、右大臣・藤原兼家の権力闘争、権力を脅かされる天皇とその側近達の思惑、その他の平安貴族の動向、と大きく4つに分類される気がします。加えて、貴族ではない謎の男・直秀(散楽一座)の存在も今後どのように絡んでくるのか気になりますね。

『どうする家康』のように派手な戦のシーンはありませんし、誰もが知る有名な人物が多く登場することはないのに、ここまで人を惹きつけるのは素晴らしいですね。時代背景や用語は少し難しいのですが、人間関係の複雑さや生々しさにリアリティがあり、その辺りの感情表現や描写がしっかりしているので視聴者の心を惹きつけるのでしょう。

これからの展開に期待したいですね。

 

『光る君へ』第三話(謎の男)の感想

 

 


『光る君へ』第三話(謎の男)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきます。

 

まず良かった点は2つあります。1つ目は、複数のストーリーラインが交錯する中で登場人物の感情の起伏や機微が丁寧に描かれていた点です。前半では三郎(藤原道長)とその兄・道兼の関係が改善していたり、後半ではまひろが左大臣の娘・倫子に近づき間者の役目をするよう言われた際、感情を高ぶらせ、母の形見である琵琶を見つめるシーンがありました。

まひろは、上流階級の貴族に取り入ることで道兼にたどり着き、母を殺した道兼への復讐を心に誓っているのかもしれません。その道兼の弟が三郎というのも悲しいものがありますね。

良かった点の2つ目は、平安貴族の暮らしを垣間見れたことです。漢字を偏(へん)と旁(つくり)に分けて、クイズを出していたり、和歌を諳んじていたり、まあ優雅なものです。庶民は苦しんでいるのに特権階級はいつの時代も変わらないものですね。男性陣は受け取った文を検分したり、囲碁を打ったり、孟子を学習していたりしていましたが、その当時の生活様式を少し理解できた気がします。

 

一方で良くなかった点は1つあります。それは題名「謎の男」が今回の物語の内容に合っていないことです。主人公のまひろが、上流階級の貴族の世界に踏み出し、政治の争いに巻き込まれていく、その第一歩なので「謎の男」という題名は少し違和感がありました。

そもそも謎の男とは誰なのか。序盤に出てきた盗賊の男なのか、または三郎を指すのか。まひろにとって三郎はまだ謎の男なので、今回の題名も分からないではないですけど、もう少し工夫をしてほしかったですね。

 

最後に学びがあった点ですが、平安貴族の男性陣が学習していた孟子の忍びざるの心について少し考えてみたいと思います。孟子は紀元前の儒家思想家で性善説を主張した人物として知られています。忍びざるの心とは、人の不幸を見過ごすことができない気持ちのことで、人は皆そのような心をもっていると孟子は説きます。

政治家が忍びざるの心をもって政治を行えば、天下をおさめることは容易である、というのが孟子の主張なのですが、現代の政治家に爪の垢でも煎じて飲ませたいですね。

ちなみに孟子は王道と覇道という考え方の元祖で、『どうする家康』でも今川義元徳川家康に「王道と覇道の違いは何か」と問い質していた姿を思い出しました。中国の紀元前の思想家の考えが約1600年後の日本の戦国時代にまで伝わっているというのは感慨深いものがありますね。