『光る君へ』第三話(謎の男)の感想

 

 


『光る君へ』第三話(謎の男)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきます。

 

まず良かった点は2つあります。1つ目は、複数のストーリーラインが交錯する中で登場人物の感情の起伏や機微が丁寧に描かれていた点です。前半では三郎(藤原道長)とその兄・道兼の関係が改善していたり、後半ではまひろが左大臣の娘・倫子に近づき間者の役目をするよう言われた際、感情を高ぶらせ、母の形見である琵琶を見つめるシーンがありました。

まひろは、上流階級の貴族に取り入ることで道兼にたどり着き、母を殺した道兼への復讐を心に誓っているのかもしれません。その道兼の弟が三郎というのも悲しいものがありますね。

良かった点の2つ目は、平安貴族の暮らしを垣間見れたことです。漢字を偏(へん)と旁(つくり)に分けて、クイズを出していたり、和歌を諳んじていたり、まあ優雅なものです。庶民は苦しんでいるのに特権階級はいつの時代も変わらないものですね。男性陣は受け取った文を検分したり、囲碁を打ったり、孟子を学習していたりしていましたが、その当時の生活様式を少し理解できた気がします。

 

一方で良くなかった点は1つあります。それは題名「謎の男」が今回の物語の内容に合っていないことです。主人公のまひろが、上流階級の貴族の世界に踏み出し、政治の争いに巻き込まれていく、その第一歩なので「謎の男」という題名は少し違和感がありました。

そもそも謎の男とは誰なのか。序盤に出てきた盗賊の男なのか、または三郎を指すのか。まひろにとって三郎はまだ謎の男なので、今回の題名も分からないではないですけど、もう少し工夫をしてほしかったですね。

 

最後に学びがあった点ですが、平安貴族の男性陣が学習していた孟子の忍びざるの心について少し考えてみたいと思います。孟子は紀元前の儒家思想家で性善説を主張した人物として知られています。忍びざるの心とは、人の不幸を見過ごすことができない気持ちのことで、人は皆そのような心をもっていると孟子は説きます。

政治家が忍びざるの心をもって政治を行えば、天下をおさめることは容易である、というのが孟子の主張なのですが、現代の政治家に爪の垢でも煎じて飲ませたいですね。

ちなみに孟子は王道と覇道という考え方の元祖で、『どうする家康』でも今川義元徳川家康に「王道と覇道の違いは何か」と問い質していた姿を思い出しました。中国の紀元前の思想家の考えが約1600年後の日本の戦国時代にまで伝わっているというのは感慨深いものがありますね。