『べらぼう』第43話(裏切りの恋歌)の感想

 

 

『べらぼう』第43話(裏切りの恋歌)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきます。

 

 

まず良かった点は、歌麿と蔦重のすれ違いを上手く描いていたことでしょうか。今回は蔦重視点では悲しいことが多く、見ていて辛いものがありました。

特に歌麿とのすれ違いと別れは蔦重には酷な展開でしたし、人間関係の難しさを再認識させられました。歌麿の恋心については、妻・ていさんは薄々気づいていたようでしたけど、蔦重は最後の最後まで気づけなかったようでしたね。まあ、それは仕方のないことかもしれません。

あとは、カメラワークで感心というか、素晴らしいと思った場面がありまして、歌麿と蔦重が会話している時に背後から二人の背中を撮影する場面なんですけど、重たい会話を強調する画作りでカメラワークの秀逸さを感じてしまいました。

 

 

一方で良くなかった点は、素晴らしい物語だったので苦言は呈したくないのですけど敢えて挙げるとすれば、政治パートの脚本に物申したいと思います。松平定信の失脚が描かれていましたけど、最後に定信のことを老中たちや将軍が嘲笑しているシーンがあり、これは少し違うというか、ここまで定信を落として描く必要はないのでは、と思ってしまいました。

もう少し定信の良い面を描いて欲しかったですし、暴走気味とはいえ政治に全力で取り組んでいる者に対して、あのラストシーンは敬意を欠いていると思いました。

 

 

最後に学びがあった点ですが、信牌という用語が出てきたので、そのことについて少し考えてみたいと思います。松平定信がオロシャのラクスマン一行に与えた貿易許可証のことを信牌と呼んでいましたけど、信牌の語源が気になりました。

どうやら東アジアの交易管理の文脈から来ているようですね。明や清の時代の中国政府は交易管理の一環として信牌という許可証を発行していました。その制度の影響が江戸時代の日本にもあったのかもしれませんね。

信牌の語源を探ると「信」は「信用・信任・公的に保証されたもの」という意味がありますし、「牌」は 木札・金属札など「身分・権限を示す札」という意味があるので、「信牌」は「公権力がその人(または船)を信用することを示す札」=「 許可証」という意味になりそうです。

勉強になりますね(笑)

 

『べらぼう』第42話(招かれざる客)の感想

 

 

『べらぼう』第42話(招かれざる客)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきます。

 

 

まず良かった点は、最終回に向けてのテーマが明確になってきた点でしょうか。

歌麿と蔦重の関係に再び焦点が当たっていましたけど、この二人の関係はいろいろな見方ができると思います。

作家と編集者、弟と兄、報われない片思いの関係性など、複雑な部分がありますし、何より物語の初回からずっと一緒なので(途中、歌麿が退場している期間もありましたが)、最後にもってくるテーマとしては妥当なのかもしれません。

面白いのは歌麿と蔦重の関係性が変化している部分で、蔦重が弱ってきているというか、商売が順調ではない中で歌麿に助けを求めるシーンが印象的でした。

西村屋が歌麿に接近し、仕事を一緒にして欲しいと歌麿を口説くシーンがありましたけど、この辺りは編集者と作家の生々しい感じのやり取りでしたね。

原点回帰ということで吉原との絡みもありましたし、最終回に向けて目が離せない展開になってきました。

 

 

一方で良くなかった点は、うーん、良くないというか少し気になったことなんですけど、政治パートが少し浮いている感じがしちゃいました。

奉行所での老中・松平定信と蔦重との対話という一番の盛り上がりを経験してしまったので、次のピークがどこに来るのか少し分かり難いですよね。

松平定信が暴走気味に突っ走っているだけなので、そこまで深みもないですし、田沼意次と対照的に描かれているのが少し可哀想です。

私が日本史を習った時を思い返してみると、田沼意次は賄賂まみれのどうしようもない政治家で、松平定信はそういう風潮を正した清廉潔白な政治家というイメージだったんですけど(笑)

 

 

最後に学びがあった点ですが、今回の物語で描かれていた江戸時代の看板娘ブームについて少し考えてみたいと思います。吉原の女郎や芸者ではなく、一般庶民の町娘を描くことで、庶民が自分の推しに会いに行けるという流行を作り出したようですね。

茶屋では通常4文のお茶が看板娘がいれると48文になるという様子が描かれていました。現代社会でも同じようなことをしているような気がします。

例えば、スターバックスブルーボトルコーヒーは、バリスタの技術・店内空間・ブランドの物語性に対して高い価格が支払われています。「どこで誰が淹れるか」で価値が変わる点で、看板娘の茶屋と構造が似ていると思いました。

 

『べらぼう』第41話(歌麿筆美人大首絵)の感想

 

 

『べらぼう』第41話(歌麿筆美人大首絵)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきます。

 

 

まず良かった点は、親子愛を中心に描いていたことでしょうか。複数のストーリーラインがあったと思うのですけど、今回は蔦重の母・つよの物語であったと言えますよね。

登場した時は脇役的な位置づけで活躍の場もそこまでないと思っていましたが、ここに来て蔦重の義理の弟・歌麿のことを気にかけたり、蔦重に対して遺言とも捉えられる助言をしたり、物語全体に奥行きを与える役割をしていたと思いました。高岡早紀さんの演技も素晴らしかったです。

『べらぼう』という物語は登場人物の使い方が上手いですよね。脚本家の手腕だと思うのですが、脇役にも見せ場を用意するというか、登場人物全員が躍動しているので見応えがあると思いました。

 

 

一方で良くなかった点は、非常に良くできた物語だったのですけど敢えて挙げるとすれば母・つよに関する演出を挙げたいと思います。

つよが頻繁に頭を痛がっていましたが、表現として直接的すぎる気がしました。歌麿の妻・きよの時も思ったのですが、突然、妻・きよの足首をアップで映すなど、不自然というか情緒のない演出のせいで少し冷めてしまった部分がありました。

今回も頭痛、医者、遺言のような助言という一連の繋がりは分かるのですけど、頭痛のシーンが頻繁にありすぎて風情がないというか、そんなに視聴者の不安を煽りたいんかい!って思いました。演出家はもっと演出の妙味を勉強してほしいです。もっと自然な演出でいいと思うんですけど、これが昨今の風潮なのでしょうか。だったら私が時代に乗り遅れているだけなのかもしれませんが(笑)

 

 

最後に学びがあった点ですが、雲母摺(きらずり)という言葉が出てきたので、そのことについて少し考えてみたいと思います。

蔦重が提案していましたけど、鉱物の粉(雲母)を絵の具に混ぜて刷ることで、背景に独特の光沢を出す手法のようですね。光を受ける角度によって輝きが変化する仕様なので、美術工芸品としても一級の価値があるようです。蔦重のアイデア力には驚かされますね。

 

『べらぼう』第40話(尽きせぬは欲の泉)の感想

 

 

『べらぼう』第40話(尽きせぬは欲の泉)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきます。

 

 

まず良かった点は、久しぶりに平和な物語だったことでしょうか。次の盛り上がりに向けての仕込みというか、伏線を張っている感じがしました。新しい登場人物も出てきましたね。

滝沢瑣吉(たきざわさきち)と勝川春朗(かつかわしゅんろう)ですけど、後の曲亭馬琴葛飾北斎になるようで、この二人はあまりにも有名ですね。

最近、『チ。』にハマっているので、津田健次郎さんが滝沢瑣吉を演じているのは嬉しいんですけど、ノヴァクのイメージがちらついてしまいます(笑)声優として認識していたんですけど、俳優として色々な映画やドラマにも出演されているようですね。いずれにしても大河俳優というのはすごいことだと思います。

 

 

一方で良くなかった点は、蔦重と歌麿の微妙な関係に焦点を当てていたことです。大河ドラマは全48回なのでクライマックスに差し掛かっていると思うのですけど、歌麿の蔦重への恋心的な部分はもう取り上げなくてもよいのでは、と思ってしまいました。

ここで伏線としてぶっこんでくるということは、クライマックスに向けて蔦重と歌麿の関係も重要なテーマになってくるのでしょうか。他にも消化すべきテーマがあるはずなので、そちらの方にエネルギーを割いてほしいのですけど。

 

 

最後に学びがあった点ですが、今回の話の中心的な部分である編集者と作家の関係性について少し考えてみたいと思います。

蔦重が新しい企画を思いついて歌麿に無理難題をふっかけていましたけど、蔦重は現代で言うところの編集者やプロデューサー的な立場ですよね。近頃、と言ってもけっこう前からですけど、鳥嶋和彦さんや佐渡島庸平さんのような編集者の方が注目を浴びている感じがしていて、面白い現象だと思っていました。

自分の感覚では作家が主で編集者は従というイメージだったのですけど、編集者がこれだけ注目を浴びるということは、何か理由がある気がしています。編集者はマーケットで何がヒットしやすいかということを経験的に知っていて、作家に対して指針を提示できるということなんでしょうか。

あとは、編集者がマーケティングやプロモーション含めた創作以外の部分を処理してくれるので、作家は創作活動に注力できるという仕組みなのでしょうか。業界のことをあまり知らないので少し調べてみたいと思いました。

 

『べらぼう』第39話(白河の清きに住みかね身上半減)の感想

 

 

『べらぼう』第39話(白河の清きに住みかね身上半減)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきます。

 

 

まず良かった点は、物語の後半で蔦重の妻・ていさんと儒学者・柴野栗山が対話する場面でしょうか。ていさんは蔦重を助けたい一心で決死の直談判を試みますが、幕府お抱えの儒学者と対等に渡り合っている姿は素晴らしかったですね。

論語を引用しながら議論をしていましたけど、教養がないとできない芸当というか、自分がいかに不勉強かを痛感しました(笑)最終的には蔦重が私利私欲でなく吉原の女郎を救うためにしたことなので、寛大な裁きをお願いします、ということで決着しましたね。儒学者・柴野栗山も心を動かされたようでした。

物語の盛り上がり方が凄くて日本橋編では一番面白かったような気がしました。ここで最終回と言われても納得するくらいの内容だったと思います。

 

 

一方で良くなかった点は、敢えて挙げるとすれば松平定信奉行所にやって来て蔦重と直接対話をした場面を挙げたいと思います。さすがに幕府の要職に就く人間が日本橋の町人の裁きにやって来るのはありえないと思っちゃいました。この部分はフィクションだと思いますし、物語の演出上、蔦重と松平定信が対話するシーンを作りたかったのでしょう。やり過ぎ感が少しありましたね。

ただ、蔦重が老中・松平定信に一席ぶつ場面も今回のハイライトの一つでしたし、これ以上の盛り上がりは今後ないような気もしました。松平定信も周りから苦言を言われていたので、そろそろ立場を追われることになりそうです。

 

 

最後に学びがあった点ですが、身上半減(しんしょうはんげん)という刑罰が出てきたので、そのことについて少し考えてみたいと思います。wikipediaによると身上とは年収のことで全財産ではなかったようです。つまり、『べらぼう』では演出上の都合で看板などを半分にしていましたけど、あの演出では身上=全財産という誤解を与えてしまいますよね。実際は年収の半分ということなので営業に差し支えるほどの額ではなかったようです。

 

『べらぼう』第38話(地本問屋仲間事之始)の感想

 

 

『べらぼう』第38話(地本問屋仲間事之始)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきます。

 

 

まず良かった点は蔦重のアイデアを基に日本橋の仲間が一致団結した場面でしょうか。窮地に陥った状況から逆転を狙う、というのはこの物語の醍醐味のような気がしています。今回は仲違いしていた山東京伝先生も協力してくれる姿勢を示してくれました。何と言うか胸が熱くなる展開でした。

山東京伝先生と言えば古川雄大さんが演じていますけど、やっぱり演技が素晴らしいですね。山東京伝先生の「モテたいから戯作者や絵師になった。」というのは、自分には春町先生のような信念はないから適当に生きていたい、浮雲のように生きていたい、ということなんでしょう。

ただ、表面的には遊び人で適当に生きているように見せかけて、実は影で血の滲むような努力をしていたり、創作者としての苦悩を抱えていたり、すごく人間らしい一面もあったりして。そういう部分を上手く演じている古川雄大さんはすごいですね。あと、山東京伝先生の妙に色気のある部分とか、改めて素晴らしい役者さんだと思ってしまいました。

 

 

一方で良くなかった点は、物語の最後の壮絶な場面を挙げたいと思います。うーん、ここまで壮絶な演出をする必要があるのか視聴者として疑問に感じてしまいました。歌麿とその妻・きよの関係が重要であることは理解できるのですけど、もう少しオブラートな感じでも良かった気がしましたね。主要登場人物である田沼意次の死が伝聞形式だったことを考えると、尚更ここまでする必要があるのかと思ってしまいました。

 

 

最後に学びがあった点ですが、人足寄場という用語が出てきたので、そのことについて少し考えたいと思います。人足寄場というのは、江戸幕府が設置した罪人の自立支援施設のことで、長谷川平蔵が設立に深く関わっていたというのが驚きです。しかも、この人足寄場はその後の巣鴨刑務所にまで繋がっていて、そう考えると長谷川平蔵の功績というのは大きいものがありそうです。

wikipediaによると寄場では、生活指導や職業訓練による自立支援が行われており、労働に対する手当も支給されていた、とのこと。この時代にしては非常に画期的な試みだったのではないでしょうか。平蔵も蔦重に負けず劣らずやり手だったのですね。

 

『べらぼう』第37話(地獄に京伝)の感想

 

 

『べらぼう』第37話(地獄に京伝)を視聴したので感想を書きたいと思います。今回も良かった点、良くなかった点、学びがあった点について書いていきます。

 

 

まず良かった点は耕書堂の女将・ていさんの存在感が増してきたことでしょうか。脇役的な位置づけだと思っていたのですが、暴走気味の蔦重に耳の痛いことを進言するなど、参謀的な役割に変化している気がしました。

日本橋に大店を構え、出版する本が軒並み大ヒットするなど、成功を掴んだ蔦重に進言できる人物が少なくなっている中で、YESマンになるのではなく、蔦重に現実を理解させて、暴走にブレーキをかける数少ない人物になっている気がしました。

存在感と言えば、山東京伝(北尾政演)も物語のキーマンのような立ち位置になってきましたね。春町先生、喜三二先生がいなくなり、黄表紙の将来を担うのは山東京伝(北尾政演)しかいない状況になってきました。物語の最後で蔦重とは袂を分かつことになりましたけど、山東京伝(北尾政演)の言う事にも一理あると思いました。

ふんどし(松平定信)を持ち上げようが落とそうが面白ければいいのではないか、という指摘をしていましたが、山東京伝(北尾政演)の方が頭が柔らかい印象を受けました。蔦重は何と言うか、時代に上手く適応できていない感じがしますね。

 

 

一方で良くなかった点は、これは良くないというより気になった点ですけど、細かすぎる演出があったことです。具体的には歌麿の妻・きよさんの足首のカットが突然入ったり、まあ、これは物語後半ですぐに回収されるのですけど、今までこのような演出があまりなかったので違和感を感じてしまいました。

きよさんが病気であることを暗示したかったのでしょうけど、不要な演出ではないかと感じてしまいました。視聴者の不安をわざわざ煽らないで欲しいと思いました。せっかく幸せになったのだから、しばらくは夫婦水入らずそっとしてあげてほしいです。

 

 

最後に学びがあった点ですが、政治パートで松平定信紀州徳川家の治貞に説教をされていたので、そのことについて少し考えてみたいと思います。

「急に物事を変えると上手くいかない。」「自分の物差しだけで判断すると失敗する。」など、人生における金言を語っていましたけど、これってある程度生きていると自然に理解するというか、生きる知恵という意味で体得してくものだと思います。まあ、こういうことを理解できない松平定信は要職に就くのが早すぎたということでしょう。

日本では自民党総裁選が実施されています。44歳の某世襲議員が当選しそうです。松平定信のようにならなければいいのですが(笑)